サウルの息子

他作品の予告編が終わり、いよいよ本編スタートという時に、スクリーンの幅がみるみる狭まっていく。思いもしなかった状況に戸惑いを覚えた瞬間、隣の客からも「えっ⁉︎」という驚きの声が漏れた。冷静に考えてみれば、このスクリーンはいわゆるスタンダード・サイズなのだが、恐らく場内にいた観客の多くが、普段映画館で慣れ親しんでいるスコープ・サイズよりもだいぶ小さくなったことに対して、「この映画はきっと何か普通とは違う」と思ったことだろう。

冒頭からカメラはサウルのバストアップを中心に据えて、周りの背景には焦点を合わせていない。カメラはほとんどのシーンで、サウルの顔か後頭部しか映さない。背景は基本的にピントがぼやけているので、何がそこに映り込んでいるのかはっきりとは見えない。しかし、それが何なのかはわかる。つまり、こんな特殊な撮影手法でも、今起きている状況を観客に伝えるのに十分な情報が、小さなスクリーンいっぱいに映し出されているというわけだ。

このスクリーンサイズや撮影手法は、ゾンダーコマンドという”死の奴隷”と化したサウルの肉体的・精神的閉塞感に、一発で観客がシンクロできる効果的な演出なのだと、鑑賞途中から気付き始めた。ガス室で死んだ少年の亡骸をユダヤ教方式で弔うべく、一心不乱にラビを探し続けるサウルの姿は、決して他人事で済ませてはいけない気がしたのだ。

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自分や仲間の命を危険に冒しても、サウルはラビ探しをやめない。ラビらしき人物を見つけたあとも、少年を埋葬することだけにとらわれ、それだけがサウルの生き甲斐かのようだった。そう、今のサウルにとっては、少年の魂を弔うことが、自分の魂も救われることにつながるのだ。サウルの人としての本能が、この最低最悪の状況下で、彼自身を突き動かしていた。

「部品」として扱われている同郷の民と、奴隷とはいえナチスの手先となっている自分。葛藤を感じることさえ許されない環境下で、サウルは心を閉ざし、見えるはずのものも見ずに、ひたすら機械の如く日々のルーティーンをこなしていく。3ヶ月か4ヶ月もすれば、サウルや仲間のゾンダーコマンドもガス室送りになる。その最期の日まで、羊飼いの犬のようにユダヤ人達をガス室に誘導し、服を脱がせ、シャワーだと偽りガス室に入れて、死体の山を片付け、血や体液で汚れた床を洗い、次の護送に備える。

地獄だ。救えないし、救われない。

少年を埋葬することに奔走するサウルの魂は、果たして救われるのか?

あのラストのサウルの表情が全てを物語っている。

殺されたミンジュ

抽象的な描き方をした作品だった。キム・ギドク監督の前作『メビウス』は、話の筋と映像があまりにもショッキングで、そこに来て今回このタイトルだ(ちなみに原題は『1対1』)。なので、ものすごく暗い作品だろうと覚悟していたが、暗いというよりは重い、「お前はどうなんだ?」と突きつけられる内容だった。映像も、拷問シーンはたくさんあるが、それほどキツイものではなかった。観る人によるのかもしれないけど。

冒頭、女子高生ミンジュが男達に捕まり、顔をガムテープでぐるぐる巻きにされ殺される。なぜミンジュは殺されたのか?強盗や強姦といった類ではないことはわかる。何か陰謀めいた謎がありそうだ。

怒れる中年男とその手下達が、ミンジュ殺害に加わった男達を一人ずつ拉致し、拷問にかける。そして、「去年の5月9日、お前がしたことを正直に書け」そう言ってミンジュの死体写真を見せて、紙とペンを渡す。拷問に耐えかねた男達は泣きながら、または震えながら自らの行いを書く。

ミンジュを殺害したのは軍の組織であることが次第に分かってくる。なぜただの少女が軍の組織に殺されなきゃいけなかったの?というミステリーに本作は答えてくれない。そういう映画ではないのだ。

ミンジュとは、民主、つまり民主主義のことだ。「民主主義を殺したのは誰?」というのが本作のテーマであることに途中から気付いた。

「上の命令は絶対。善悪は関係ない」
「怒られたら、本意じゃなくてもひたすら謝ればいい」
「信念を持っていれば正義」

理不尽な暴力を受けた者が、暴力で相手に復讐する。暴力は人間の身体のみならず本能にも圧倒的なダメージを与えるため、一時的な効果はあるものの、結局は新たな復讐の炎を焚きつけるに過ぎない。復讐は何も生まず、負の連鎖によって世界が瓦解していく様を本作は描いていた。

「独裁者は国だけじゃない。家族、友人、恋人の中にもいる」

「ドジョウは水槽に一匹だけだとすぐに死んでしまうが、ライギョを入れると健康で長生きする。追ってくるライギョから必死に逃げるから」

多くの人間が被害者意識のある反面、誰しもが加害者であることも事実だ。ドジョウはライギョで、ライギョはドジョウだ。

ミンジュを殺したのは誰だろう?その責任の一端は自分にもあるのかもしれない。

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ブラック・スキャンダル

本編は予告編の印象とは異なり、重くスリリングで、『グッドフェローズ』と同じ路線の映画だった。つまり大好きなタイプの作品。

本作では、アイリッシュ・ギャングの実話をベースに、ジョニー・デップがいつもの如く特殊メイクを施しながらも、ファンタジー映画では絶対に見せない迫力や狂気をフルで吐き出していた。

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ギャングの親分ジェームズ・バルジャーことジョニー・デップの目とポスチャー(姿勢)が素晴らしい。相手の心臓を鷲掴みにするような鋭い眼光も素晴らしいが、彼のどこか空虚な目つきや猜疑心に満ちた目の移ろいに、観ているこちらは次の展開に期待と不安を覚えドキドキしてしまう。それから歩き方と立ち方。鍛えて引き締まった身体と親分然とした態度を違和感なく表現している。

すっかりファンタジー俳優として定着してしまったジョニー・デップだが、彼のこういう演技を観てみたかったのだ。ちなみに、昨年『Mr.タスク』で演じたギー・ラポワンテも、特殊メイクとファンタジー感はあったものの、迫力のある魅力的なキャラクターだった。

本作のキーワードは「絆」と「忠誠心」。マフィア映画と違い、裏切りがないのが特徴的だった。

マッド・マックス 怒りのデスロード @MX4D

本日、MX4Dを初めて体験してきた。選んだ映画は『マッド・マックス 怒りのデスロード』。昨日からTOHOシネマズで、期間限定でリバイバル上映されている。ならば観るしかあるまい、MX4Dで。

スモークが焚かれるわ、風や水しぶきが顔にかかるわ、椅子がガタゴト動くわ、背中やお尻にマッサージチェアよろしく何かが当たるわ、フラッシュが瞬くわ、こいつは完全にアトラクションだ。『マッドマックス』のような映画には最適じゃないか。ポップコーンなんか食べている暇がない。ジュースを飲むのも忘れてしまう。

約半年ぶりに『マッドマックス 怒りのデスロード』を鑑賞したわけだが、いやぁやっぱり面白い。砂漠をただ行って帰ってくるだけの映画がなんでこんなに面白いんだろう?アカデミー作品賞は獲らないと思うが、その他の賞は総ナメするだろうな。映画体験という意味では本年度最高だろう。年に一回か二回は、このような衝撃を与えられる映画と出会えるが、『マッド・マックス 怒りのデスロード』は群を抜いてド級だ。

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フュリオサの美しさに改めてうっとりした。強く優しく美しい女戦士。そのイメージをシャーリーズ・セロンが見事に作り上げ体現している。ノミネートはされていないが、本年度のアカデミー主演女優賞はシャーリーズ・セロンに贈りたい。

ドゥーフ・ウォリアーもおもしろカッコよかった。最優秀おもしろカッコいいキャラはドゥーフ・ウォリアーで間違いない。(そう言えば、アニメ『魔神英雄伝ワタル』の次回予告は、「来週も、おもしろカッコいいぜ!」という決まり文句でしめられていた。)

さすがカーチェイス・アクション・ムービーの金字塔だ。真冬に観ても身体が熱くなる。MX4Dでさえ物足りなさを感じてしまうほどの迫力が映像から溢れていた。

さらば あぶない刑事 ※ネタバレあり

ドラマ放送開始から30周年にして完結編。公開初日の昨夜、タカとユージの勇姿を拝みに映画館へ。席に座り、本編が始まるまでの間、高揚感と緊張感が入り混じった変な気分に陥り、落ち着かなかった。妻が買ってきたポップコーンにひたすら手を伸ばす。

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ユージがステップを踏みながら留置所の廊下を歩いてくる。「タカ」「ユージ」声を掛け合うふたり。ファンならここでウルっとくる。

「近藤課長だったらなぁ……」タカとユージが近藤課長(故 中条静夫)を引き合いに出して今や上司の透に説教をする。ファンならここでウルっとくる。

引退したパパがおでん屋さんになっている。引退した中さんがラーメンの屋台を営んでいる。ファンならここでウルっとくる。

定年退職後は一緒にニュージーランドへ移住しようと約束していた恋人の夏海が殺され、泣き叫ぶタカ。”泣く”という感情をこんなにも露わにしているタカを見たのは初めて。ファンにとってはけっこう衝撃的なシーンだ。そばに佇むユージはなんと声をかけていいかわからない。タカに近寄って慰めてやることもできない。そんなユージの姿を見てウルっとくる。

単独で敵のアジトに潜入しようとするユージに、透が整備された車を手配する。それは、日産レパードのゴールドカラー。ドラマ開始当初、ユージがいつも乗っていたやつだ。ファンならここでウルっとくる。そして、ユージのことを止めつつも弾丸をプレゼントする透。もっかいウルっとくる。

ユージが腕を負傷し、ピンチの時、遠くからバイクのエンジン音が。「ショータイムだ」ユージがそう言うと、ショットガンを両手で構えながらバイクを走らせるタカの姿が。ファンならここでウルっとくる。

大勢の敵に囲まれ絶体絶命のタカとユージ。「昨日言いかけてたおまえの夢ってなんだよ?」タカがユージに訊く。ユージが答える。「結婚して子供作って、その子供をダンディなデカに育て上げる」これってユージからタカへの告白じゃないか。長年パートナーとしてずっと一緒にやってきたタカ。「やっぱり俺たちふたりでひとりだよ」過去には、自分の単独行動のせいで深手を負わせてしまい意識不明となったタカに、ユージは半泣きでそう言ったこともあった(劇場版 あぶない刑事)。ユージにとって、タカはかけがえのない相棒なのだ。定年退職を機に、タカは恋人と第二の人生を歩み始める。それを自分は笑顔で見送ってやろう。そして自分は、子供を作って、タカのようなダンディで懐の深い男に育ててみせよう。ユージはそう思っていたのだ。ファンならここでウルっとくる。タカが言う。「ユージ、おまえに出会えてよかったよ」一瞬の間。「泣かせないでよ」ユージがはにかみながら返す。ファンなら、いやファンでなくともウルっとくる。

男が男に惚れるドラマ。最高のバディムービー。そりゃ、ツッコミどころはいくつもあるが、今この時は、そういうものもすべて飲み込んだ上で、ただただ感慨に耽りたいのだ。

30年の歴史がある。キャラクターたちは、30年分の年輪を刻み、老いた者、成長した者、現役バリバリの者と、いろいろだが、皆いい歳の取り方をしている。『あぶない刑事』を知らない人は、ドラマシリーズと劇場版、膨大な量になるけれど、それらすべてを観てから本作に臨んでほしい。でも、この感慨は、30年間リアルタイムで観続けてきたからこそ味わえるものなのかもしれない。

イット・フォローズ

ポスターのセンスが好き。70〜80’sのホラー映画の雰囲気を狙っている。

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本編もやはり『ハロウィン』に代表されるような70〜80’sのホラー映画を意識していた。「追ってくるソレ」という普遍的な恐怖が、じわじわとスクリーンから滲み出てきて、目が離せない。

ロングショットや360度パンを有効的に使い、不安な映像を作り出している。目の前の映像のどこかに恐ろしいものが映り込んでいるに違いないと、必死に目を凝らしてスクリーンの隅々まで見回した。音楽や間の取り方も勘所が抜群で、気持ちよくノることができた。

そして本作は青春映画でもある。モラトリアムなジェイ。高校生のケリーやポール。ちょっとワルっぽいグレッグ。静かでどこか間延びした感のある住宅街。全編寂しげな雰囲気が漂っているが、撮影はデトロイトで行われたそうだ。こういうアメリカの街並みが好きだ。ちょっとダサい、ちょっと古臭い、そして乾燥した空気の中にほんの少し湿っぽさを漂わせたアメリカの町。そこに住む若者たち。彼らと一緒にそこの住人になりたい。あの荒廃しかけた世界観に浸りたい。

ほとんど大人不在のこの映画。まさに青春映画だ。少年少女が直面する試練と恐怖。彼女たちの成長が試される。

前夜

1986年から放送開始され、今年で30周年。劇場版が6本、TVスペシャルが1本。バブル期に製作されたドラマは、面白くて楽しい作品が多かったが、この作品はその代表格と言えよう。


横浜を舞台に暴れまくる刑事のタカとユージ。二人の活躍をファッショナブルにコミカルに、そして時にシリアスに描いた刑事ドラマだ。

日曜夜9時から放送していた『あぶない刑事』は、当時、早寝を強要されていた子供だったため観ることはできなかったが、リビングで親が観ているのをそっと覗き見た記憶がある。夕方4時からの再放送は全て観ていた。学校から帰ってきて4チャンネルをつけスタンバイ。楽しみだった。

思い出深いのは劇場版第2作目『またまたあぶない刑事』。母親に連れられ友達と一緒に映画館に行った。上映終了後、タカとユージが舞台挨拶に颯爽と現れた時、わけのわからない興奮状態に陥った。スクリーンからそのまま飛び出てきたように、二人は劇中と同じ衣装を着ていた。

あまりにハマりすぎて、御徒町にモデルガンを買いに行ったこともあった。ユージの使用していたコルト・ローマンを買って、遊んでいた。

ああ、明日、楽しみだな。そして、寂しいな。さらば……。