2019 day213

7月の後半は割とのんびりと過ごせた。有休を計4日間取ったのも大きい。8月も同じようなスケジュールで過ごそう。

2日前、仕事帰りに『トイ・ストーリー4』を観た。今回はだいぶ大人向きの作りになっていた。ある種のセーフティネットの中で自分に求められた役割だけを全うしていればハッピーな人生から一転、お払い箱になった途端に行き場を失い、人生の目標というか自分自身の存在意義を失ってしまう。このままだと腐っていくだけで、怨念の塊になってしまう。だから、それまで享受してきた幸福には別れを告げて、新たな世界に一歩踏み出し、第二の人生を送る。そんな話だった。大人であればあるほど泣けてくる話だ。

観ていてアメリカらしいなぁと感じたのは、冒頭、ボニーが通う幼稚園の体験入学のクラスに、補聴器を付けている子供がいたこと。特別支援学級ではなく、通常のクラスで皆と一緒に学べるということもそうだし、その子が付けていた補聴器が人工内耳だったということもそうだ。それから、ボーが実に現代の女性らしい強さを携えて再登場したことは、昨今のアメリカ映画らしい演出だ。

そして本作は、子供が喜ぶかわいい面白い映画というよりは、ホラー映画に近い。ボニーがゴミから作ったフォーキーが、魑魅魍魎の類にしか見えない。前作『トイ・ストーリー3』の時に感じた恐怖(ミスター・ポテトヘッドがトルティーヤやキュウリに自分のパーツを付けたくだりや、ビッグベイビーの存在感)が倍増して襲いかかってきた。ギャビーギャビーにしても、取り巻きの腹話術人形たちにしても、まるで『チャイルドプレイ』のチャッキーだ。そもそも、オモチャが人格を備えて動き回っていること自体、物の怪以外のなにものでもない。フォーキーが腹話術人形に「君はなかなかホラーだったよ」と楽しげに語りかけているシーンがあったが、お前こそな!と言いたい。一番悪魔的だったのはバニー&ダッキーだ。かわいい見た目に反して、考えていることがエグすぎる。人間に対しての怨念が深すぎて恐ろしい。

結論としては、そういう恐怖感も含めて非常に楽しめた映画だった。観客の心をえぐってくる映画は素晴らしい。ウッディにとってハッピーエンディングだったことも嬉しい。

人生は何があるかわからない。つらいことのほうが多いし、報われないことのほうが多い。でも、最後に何が得られたか、どんな終わり方ができたかが重要だと思う。

先日、音楽をやっている友人のライヴに行った。ピアノ弾き語りの彼のライヴでは、たまにカバー曲を歌う。その日は、美輪明宏ヨイトマケの唄を歌った。日雇い労働者である母ちゃんのことを歌った曲ではあるが、友人が思い浮かべていたのは彼の父親だった。

その日は、友人の父親が亡くなってまだ49日も経っていなかった。彼や彼の兄弟たちが学生の頃に母親がとある事情で出て行き、父親ひとりで多額の借金を抱えながら子供たちを育てた。

子供たちはそれぞれ独立し、姉は父親と疎遠状態、彼と弟が年に一回くらい実家に帰っていた。晩年、父親は身体を壊し、ほとんど目も見えなくなり、独り、家族の思い出の詰まっている家で暮らしていた。

ある年の父の日に、友人は父親に初めてプレゼントをした。いつも持っている財布がボロボロで汚くなっていたので、ブランド物の財布を渡した。父親は「こんなもの使わないよ。誰かにあげちまおうかな」と言って友人を怒らせた。もう二度とプレゼントなどやるかと。

父親が亡くなって遺品整理をしていると、その財布が出てきた。しっかりと使われている様子で、中を開けるとお札が出てきた。

遺品整理をしていてわかったことはほかにもあり、例えば借金返済にあたって、債権者や弁護士とどのようなやりとりをしていたのかということも、友人はその時初めて知った。また、そのことでどのような生活を強いられていたのかも、友人の想像を超えていた。

父親の死亡推定時刻は午後1時ごろ。その2時間後に自宅の風呂場で発見された。昔ながらの正方形の浴槽で、湯船に浸かった状態で事切れていた。うつむいた顔は水面より上で止まっており、溺れて亡くなったわけではなさそうだった。心臓発作でそのまま逝ってしまったらしい。発見が早かったので体はきれいな状態で、表情も穏やかだった。

父親は風呂が大好きだった。保証人のハンコを押したことでこさえてしまった借金返済に追われ、無理が祟って病気もして、とても苦労の多かった人生の中で、風呂はほっと一息つける極楽の時間だった。

そんな大好きな風呂に入りながら天寿を全うしたことは、友人の父親にとって幸せな最期だったのではないかと思う。

友人から、彼の父親がどんな人生を送ってどんな最期だったのかを聴いて、子供の頃に読んだ『奉教人の死』という芥川龍之介の小説を思い出した。その人がどのように生きてきたのかはその死に様に現れるという話だ。友人の父親は、全てが報われて穏やかな死を迎えることができた。素直にそう感じた。

人生の終わり方は選べない。願い通りの死に方など約束されていない。そもそもどんな死に方をしたいかなんてこと、死期を感じない限り考えることすらない。だからこそ、死に様にはその人の人生が現れる。思い通りにはいかない人生だけど、どういう生き方をするかは自分で決められる。それが信念というものだ。人生の意味を考えるならば、自分の内なる声に耳を傾けて、一所懸命生きること以外に、その答えは見つからない。