サウルの息子

他作品の予告編が終わり、いよいよ本編スタートという時に、スクリーンの幅がみるみる狭まっていく。思いもしなかった状況に戸惑いを覚えた瞬間、隣の客からも「えっ⁉︎」という驚きの声が漏れた。冷静に考えてみれば、このスクリーンはいわゆるスタンダード・サイズなのだが、恐らく場内にいた観客の多くが、普段映画館で慣れ親しんでいるスコープ・サイズよりもだいぶ小さくなったことに対して、「この映画はきっと何か普通とは違う」と思ったことだろう。

冒頭からカメラはサウルのバストアップを中心に据えて、周りの背景には焦点を合わせていない。カメラはほとんどのシーンで、サウルの顔か後頭部しか映さない。背景は基本的にピントがぼやけているので、何がそこに映り込んでいるのかはっきりとは見えない。しかし、それが何なのかはわかる。つまり、こんな特殊な撮影手法でも、今起きている状況を観客に伝えるのに十分な情報が、小さなスクリーンいっぱいに映し出されているというわけだ。

このスクリーンサイズや撮影手法は、ゾンダーコマンドという”死の奴隷”と化したサウルの肉体的・精神的閉塞感に、一発で観客がシンクロできる効果的な演出なのだと、鑑賞途中から気付き始めた。ガス室で死んだ少年の亡骸をユダヤ教方式で弔うべく、一心不乱にラビを探し続けるサウルの姿は、決して他人事で済ませてはいけない気がしたのだ。

f:id:jiuramsey:20160214180829j:image

自分や仲間の命を危険に冒しても、サウルはラビ探しをやめない。ラビらしき人物を見つけたあとも、少年を埋葬することだけにとらわれ、それだけがサウルの生き甲斐かのようだった。そう、今のサウルにとっては、少年の魂を弔うことが、自分の魂も救われることにつながるのだ。サウルの人としての本能が、この最低最悪の状況下で、彼自身を突き動かしていた。

「部品」として扱われている同郷の民と、奴隷とはいえナチスの手先となっている自分。葛藤を感じることさえ許されない環境下で、サウルは心を閉ざし、見えるはずのものも見ずに、ひたすら機械の如く日々のルーティーンをこなしていく。3ヶ月か4ヶ月もすれば、サウルや仲間のゾンダーコマンドもガス室送りになる。その最期の日まで、羊飼いの犬のようにユダヤ人達をガス室に誘導し、服を脱がせ、シャワーだと偽りガス室に入れて、死体の山を片付け、血や体液で汚れた床を洗い、次の護送に備える。

地獄だ。救えないし、救われない。

少年を埋葬することに奔走するサウルの魂は、果たして救われるのか?

あのラストのサウルの表情が全てを物語っている。