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バケモノの子 ※ネタバレあり

本作は、9歳で母親と死別し、父親は行方不明で、養子として迎え入れられた親戚とは折り合いがつかず、殻の中に閉じこもって、文字どおりひきこもりとなった少年が見た夢と現の綯い交ぜになった成長記である。

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自分の中の闇の部分を埋めるには、父親との和解が不可欠だった。しかし、自らの不幸な生い立ちにウジウジして、拠り所のない怒りに我を忘れ、素直になれない。

何故母さんは死んだの、何故父さんは助けに来てくれなかったの、何故僕はひとりぼっちなの。蓮(九太)は精神世界を彷徨うことになる。

そんな蓮(九太)に救いの手を差し伸べるのが、自分を籠の中の鳥だと思っている女子高生、楓だ。学問を知らない蓮(九太)をいっちょまえに育てることが(同年代と同じレベルの学力に追いつかせることが)、まるで自分の使命であるかのように振る舞う。

楓と蓮(九太)の関係性については恋愛描写のような風体を装っているが、実際のところは蓮(九太)は楓の人身御供だ。この映画の共通言語を使うならば、楓の心の闇を埋めてくれる存在が蓮(九太)というわけだ。

楓は、金持ちでガリ勉で正しいことは正しいと強く思っているタイプなので、自分を不幸だと思い込む要素をたっぷり持っている。思春期にありがちの不幸な自分に酔っている状態だ。

蓮(九太)も同様に、思春期ならではの探究心と衝動に身を任せればいいものを、どうしても一歩踏み出せずに腐っている。いつだって心の闇が邪魔をして先に進ませてくれない。憤りがさらに心の闇を肥大させる。

9歳から17歳になるまで育ててくれたバケモノ(熊徹)に素直になれないのは、自我が邪魔をしているからだ。つまり自分は人間であってバケモノではないという事実が、人間としてのプライドでもあり、バケモノの世界では逆にコンプレックスでもあるのだ。加えて蓮(九太)は熊徹の弟子でもあり師匠でもあった。言わば師弟関係というよりも遠い親戚との友達関係に近い。

そんな蓮(九太)の写し鏡とも言える存在が一郎彦だ。彼もまた、バケモノに育てられた人間であるが故の苦悩を抱えていた。父、猪王山のように何故立派な牙が生えないのか、何故鼻が伸びないのか、弟は父にそっくりなのに。悩みが悲しみに、悲しみが怒りに。その怒りの矛先は自分と同じ匂いのする蓮(九太)へと向かう。

これは非常にわかりやすいいじめの構図だ。

9歳から現実逃避していた蓮が妄想の世界では九太を名乗り、夢と現を行き来しているうちに楓と出会って少し外の世界に出るようになった。熊徹というのが完璧なるファンタジーの住人なのか、実際にモデルとなる人物がいたのかは定かでないが、蓮の心の闇を埋める存在になったのは間違いない。蓮はウジウジ考えるのをやめ、前を向いて進むことを決断したのだから。

と、本作のすべてがメタファーで、蓮の妄想世界の冒険活劇と現実世界が織り交ぜられたお話と受け取ったわけだが、それにしても説教くさい映画で、押し付けがましく鬱陶しいと感じたのは否めない。

楓も猪王山もタイプは違うが嫌なやつだ。自分は周囲とは違って特別だと思い込んでいる。そして、自分の価値観を絶対的に正しいものだと疑わず他人にそれを押し付け仇となって返ってくる。

蓮にもまったく感情移入ができないのは、彼が当たり前のことで悩み、当たり前の試練を当たり前のことをやって乗り越えていくからだ。劇中では何も特別なことは起きていない。

映画のテーマや語り口が気に入らなかったので、細田守監督作品にしては珍しく途中で飽きてしまった。

細田守監督作品といえば、過去作に『時をかける少女』、『サマーウォーズ』、『おおかみこどもの雨と雪』がある。全作品に共通しているのは、出てくる女(ヒロイン)が現実味がない、または痛い、または気持ちが悪い、といった点が挙げられる。論証はしないが、細田守監督のヒロイン像がどうも受け付け難く、嫌悪感しか生まれないのは事実だ。本作でいえば、楓の存在にいい加減うんざりして、終盤、「(バケモノの世界に)お呼ばれされちゃった」と言って楓がバケモノの世界の広場に現れたときには、呼んだのは宗師ではなく細田守監督自身だろう!と叫びたくなった。



本作のモチーフとして使用されている著書に『悟浄出世』という作品がある。『山月記』で有名な中島敦の著作だ。西遊記の悟浄を主人公にした本で、河底で「我は何故に我なのか?」とひたすら考え込んでいる悟浄が、生きることの意味を探しに旅に出るというお話である。結論としては、「頭でっかちに考えてばかりいないでまずは行動しろよ、意味はあとからついてくるんだから」と諭され玄奘三蔵にお供することになるわけだが、これはまるっきり『バケモノの子』で使われているテイストだ。

強さの意味を求めて各地の宗師たちに教えを乞う旅に出た熊徹一行は、どう見ても西遊記の4人だ。多々良が悟空、百秋坊が八戒、蓮(九太)が悟浄。となると熊徹が玄奘三蔵になるわけだが、これはちと物言いがつきそうだ。いずれにしてもこの旅は『悟浄出世』における悟浄の旅をモチーフにしている。

「強いっていろんな意味があるんだな」
「意味なんかてめぇで見つけるんだよ!」

これらのセリフは本作のテーマでもある。意味を見つけるための旅に意味を見つける術はなく、自分の情熱に忠実に信念を持って行動を起こすことこそ真実に近づく唯一の手段なのだ。



さて、本作がまったく受け付けなかったかといえばそういうわけでもなく、アニメーション即ち絵の動きや絵そのものには感嘆と感動を禁じ得ない。また、声優の出来不出来は端に置いておいて、声優(俳優)の顔と声をあてているキャラクターの造形が似ているため、人物と声のマッチングには成功していた。特に、多々良(大泉洋)が素晴らしかったことは特筆すべき点である。一方で、熊徹(役所広司)は、怒鳴り方が一辺倒で、引き出しの少なさが垣間見えた。きっと、演出にも問題があったのだろうが、俳優自身が普段から「色」に頼っている結果が浮き出てしまったのだろうと思われる。

細田守監督は、オリジナル作品になるとひきこもりばかり引き合いに出してくる癖があるようなので、次回作は『時をかける少女』のように、原作は他の人にしてもよいのではないか。いくら話の内容がつまらないと思われても、絵の力で最後まで引っ張っていけるわけだから、日本を代表するアニメーターであることには間違いないのだ。

ただやはり、ラストでダメ押しのミスチルは勘弁してほしかった。演出にお涙頂戴は不要である。