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ルック・オブ・サイレンス ※ネタバレあり


ジョシュア・オッペンハイマー監督の前作『アクト・オブ・キリング』と対を成す作品。共に、1965〜66年にかけてインドネシア各地で勃発した100万人を超える大虐殺の事実に迫るドキュメンタリー映画である。殺されたのは「共産党員」というレッテルを貼られた何の罪もない一般市民や華僑の人々だったが、勝てば官軍の世の中では、虐殺の指揮にあたった軍政府側や加担した民兵たちが英雄として今でも権力を握っている。

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アクト・オブ・キリング』は加害者側にスポットを当て、彼らが当時のことを饒舌に語る姿を納めていた。現在は社会的地位もあり権力も富も得ているのは「共産党員」を殺した英雄だからだと、自ら誇らし気に語る。どうやって殺したのかを身振り手振りだけでは飽き足らず、カメラの前で殺害の様子を再演して説明するのだ。そして彼らは自慢気に笑う。笑う。笑う。

あまりにもショッキングなその映像に、言葉を失い、脳が痺れ、息をするのもしんどくなった。

そしてあのラストシーン。嘘で塗り固められた歴史と記憶に、遂に身体が拒否反応を起こした加害者の姿が、延々と映し出された。それはまさに地獄絵図。地獄に落とされた亡者の様相だ。

本作『ルック・オブ・サイレンス』では、被害者側の視点から大虐殺の事実が語られていく。

主人公のアディは大虐殺の2年後に生まれているので、当時のことは母親から聴かされたことをなぞるほかない。しかし、彼の生きてきたこの44年間は、大虐殺の歴史の延長線上に存在しており、その苦しみは今なお彼や彼の家族に重くのしかかっている。

アディの兄、ラムリは、大虐殺の被害者で、その殺害現場を多数に目撃されていた。そのため、ラムリのことは当時から現在に至るまで人々の間で語られてきた。いつしか「ラムリ」という言葉自体が「殺人」「虐殺」と同義語として用いられるようにすらなった。

そんな兄を持つアディは、母親から「おまえはラムリの生まれ変わりだ」と言われ育ってきた。

アディの住む村では被害者家族も加害者家族も一緒に暮らしている。お互いに憎しみ合いながら、でも大虐殺のことは口にはせず、鬱々と毎日を送っている。似たような状況は『アクト・オブ・キリング』でも描かれていた。

当時のことを口にするのはタブー。封じられた過去。だが、その過去の上に揺るぎない地位や財産を築いた加害者たちがいる一方で、被害者たちは軍当局からの圧力により貧困を余儀なくされている。

冒頭のシーンで、蝶(蛾)の卵を産み付けられた小さな豆が飛び跳ねていた。奇妙な豆だ。後半にもその豆が出てきた。アディの母親の手のひらで飛び跳ねている。硬い殻に囲まれた幼虫が中で騒いでいるのだ。『アクト・オブ・キリング』のラストシーンを思い出した。平気な顔をして殺人を語る加害者たちは、皆、自らの行為を正当化していた。本当に誰も悔やんでいないのか?本当に誰も悪夢にうなされていないのか?それは、あのラストシーンが答えていた。

本作でも、加害者たちは殺害の様子を自慢気に語っていた。インタビュアーはアディ。始めは素性を隠して当時の様子を聞く。しかし、ひととおり加害者が語りきったところで、「実は私は被害者家族です。私はあなたに殺されたラムリの弟です」と打ち明けると、加害者の表情は一変する。本作のタイトルどおり、沈黙が流れる。その嫌な沈黙をカメラは撮り続ける。

怒り出す加害者。
暗に脅迫してくる加害者。
上官や時代のせいにする加害者。
自分は言われたとおりにしただけとしらばっくれる加害者。
何も知らないし聞いてないと不快感を露わにする加害者家族。
妙に馴れ馴れしく共感を得ようとする加害者家族。

そんな彼らをアディは静かに見つめる。

殻をまとった様々な記憶や感情が爆ぜて、爆ぜて、爆ぜまくる。

アクト・オブ・キリング』とは対照的に沈黙の多い本作だが、見えない亡霊の聞こえない声が、あたかもスクリーンの中のアディや加害者たちにまとわりついているかのように感じられた。

その姿を正視し、その声に耳を傾け、真っ向から相手と対峙しなければ、新しい明日はやって来ない。本作の中で語られることは、遠い国の知らない出来事なんかじゃなく、我々のごく身近に潜む歴史だ。

アディの呪縛を解く旅は、決して他人事ではないことを忘れてはならない。