2019 day218

職場の本社研修の日程調整をしたら、部下の1人が「他の人とは別の日がいい、1人の方が気楽だから」と言った。彼がそう言うだろうことはわかっていたからそのように日程を組んだ。

彼は二人の息子の妻子持ち。でも独りの時間を非常に大切にする。郊外の一軒家に住む彼は、庭でゴウヤなどを家庭菜園しているらしい。アウトドア派の彼は、少しでも日光を浴びている時間と独りでいる時間を確保する為に家庭菜園をやっていると言う。

自分も独りのほうが好きなタイプだし、昔はたとえ同棲していたとしても独りが好きだった。同棲相手が家にいない時間が楽しみだった。特別何をするわけでもないが、独りで気兼ねなく過ごすことが何よりストレスフリーだった。だから自分は結婚には向いていないと思っていた。

自分にとって最後の恋人であり現在の妻である彼女とは同棲したことがない。でも、妻とは付き合い始めた時から一緒にいるのがとても自然だった。自分自身が自然体でいられたし、空気のように彼女が必要だった。

妻と息子。自分の家族と一緒にいることが至高の喜びで、たとえば2人が妻の実家に泊まっている夜などは、寂しくて仕方がない。家族で一緒にいる時間が何よりも大切だ。

だから、職場の部下である彼の気持ちに共感できる部分はありつつも、自分の感覚とは異なる点において、彼の幸福感は計りかねる。まあ、それは他人のことだからどうでもよくて、自分はこの家庭があって幸せだと改めて思った日だった。

2019 day213

7月の後半は割とのんびりと過ごせた。有休を計4日間取ったのも大きい。8月も同じようなスケジュールで過ごそう。

2日前、仕事帰りに『トイ・ストーリー4』を観た。今回はだいぶ大人向きの作りになっていた。ある種のセーフティネットの中で自分に求められた役割だけを全うしていればハッピーな人生から一転、お払い箱になった途端に行き場を失い、人生の目標というか自分自身の存在意義を失ってしまう。このままだと腐っていくだけで、怨念の塊になってしまう。だから、それまで享受してきた幸福には別れを告げて、新たな世界に一歩踏み出し、第二の人生を送る。そんな話だった。大人であればあるほど泣けてくる話だ。

観ていてアメリカらしいなぁと感じたのは、冒頭、ボニーが通う幼稚園の体験入学のクラスに、補聴器を付けている子供がいたこと。特別支援学級ではなく、通常のクラスで皆と一緒に学べるということもそうだし、その子が付けていた補聴器が人工内耳だったということもそうだ。それから、ボーが実に現代の女性らしい強さを携えて再登場したことは、昨今のアメリカ映画らしい演出だ。

そして本作は、子供が喜ぶかわいい面白い映画というよりは、ホラー映画に近い。ボニーがゴミから作ったフォーキーが、魑魅魍魎の類にしか見えない。前作『トイ・ストーリー3』の時に感じた恐怖(ミスター・ポテトヘッドがトルティーヤやキュウリに自分のパーツを付けたくだりや、ビッグベイビーの存在感)が倍増して襲いかかってきた。ギャビーギャビーにしても、取り巻きの腹話術人形たちにしても、まるで『チャイルドプレイ』のチャッキーだ。そもそも、オモチャが人格を備えて動き回っていること自体、物の怪以外のなにものでもない。フォーキーが腹話術人形に「君はなかなかホラーだったよ」と楽しげに語りかけているシーンがあったが、お前こそな!と言いたい。一番悪魔的だったのはバニー&ダッキーだ。かわいい見た目に反して、考えていることがエグすぎる。人間に対しての怨念が深すぎて恐ろしい。

結論としては、そういう恐怖感も含めて非常に楽しめた映画だった。観客の心をえぐってくる映画は素晴らしい。ウッディにとってハッピーエンディングだったことも嬉しい。

人生は何があるかわからない。つらいことのほうが多いし、報われないことのほうが多い。でも、最後に何が得られたか、どんな終わり方ができたかが重要だと思う。

先日、音楽をやっている友人のライヴに行った。ピアノ弾き語りの彼のライヴでは、たまにカバー曲を歌う。その日は、美輪明宏ヨイトマケの唄を歌った。日雇い労働者である母ちゃんのことを歌った曲ではあるが、友人が思い浮かべていたのは彼の父親だった。

その日は、友人の父親が亡くなってまだ49日も経っていなかった。彼や彼の兄弟たちが学生の頃に母親がとある事情で出て行き、父親ひとりで多額の借金を抱えながら子供たちを育てた。

子供たちはそれぞれ独立し、姉は父親と疎遠状態、彼と弟が年に一回くらい実家に帰っていた。晩年、父親は身体を壊し、ほとんど目も見えなくなり、独り、家族の思い出の詰まっている家で暮らしていた。

ある年の父の日に、友人は父親に初めてプレゼントをした。いつも持っている財布がボロボロで汚くなっていたので、ブランド物の財布を渡した。父親は「こんなもの使わないよ。誰かにあげちまおうかな」と言って友人を怒らせた。もう二度とプレゼントなどやるかと。

父親が亡くなって遺品整理をしていると、その財布が出てきた。しっかりと使われている様子で、中を開けるとお札が出てきた。

遺品整理をしていてわかったことはほかにもあり、例えば借金返済にあたって、債権者や弁護士とどのようなやりとりをしていたのかということも、友人はその時初めて知った。また、そのことでどのような生活を強いられていたのかも、友人の想像を超えていた。

父親の死亡推定時刻は午後1時ごろ。その2時間後に自宅の風呂場で発見された。昔ながらの正方形の浴槽で、湯船に浸かった状態で事切れていた。うつむいた顔は水面より上で止まっており、溺れて亡くなったわけではなさそうだった。心臓発作でそのまま逝ってしまったらしい。発見が早かったので体はきれいな状態で、表情も穏やかだった。

父親は風呂が大好きだった。保証人のハンコを押したことでこさえてしまった借金返済に追われ、無理が祟って病気もして、とても苦労の多かった人生の中で、風呂はほっと一息つける極楽の時間だった。

そんな大好きな風呂に入りながら天寿を全うしたことは、友人の父親にとって幸せな最期だったのではないかと思う。

友人から、彼の父親がどんな人生を送ってどんな最期だったのかを聴いて、子供の頃に読んだ『奉教人の死』という芥川龍之介の小説を思い出した。その人がどのように生きてきたのかはその死に様に現れるという話だ。友人の父親は、全てが報われて穏やかな死を迎えることができた。素直にそう感じた。

人生の終わり方は選べない。願い通りの死に方など約束されていない。そもそもどんな死に方をしたいかなんてこと、死期を感じない限り考えることすらない。だからこそ、死に様にはその人の人生が現れる。思い通りにはいかない人生だけど、どういう生き方をするかは自分で決められる。それが信念というものだ。人生の意味を考えるならば、自分の内なる声に耳を傾けて、一所懸命生きること以外に、その答えは見つからない。

2019 day194

ようやく、二ヶ月半ぶりに劇場映画鑑賞。

スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』は、MCUの中でもこじんまりとした話で、いかにもスパイダーマンといった感じ。一連のMCU作品があって、特にエンドゲームの直後だと、スパイダーマンの小物感が際立ってしまうが、スパイダーマンってそういうものだから間違ってはいない。まだ16歳だし。青春真っ只中だし。

とはいっても、ピーター・パーカーはこれから成長していく。まだまだ伸びしろのある若者だ。スパイダー・バースのように、いつかはおっさんになるのだ。トニー・スタークの年齢に追いつく日がいつかくるのだ。精神的にも、戦術的にも、スパイダーマンの成長はまさにこれから。

このシリーズでは描かれていないピーターにとってのメンターであるベンおじさんは、トニー・スタークがその存在の代替と考えられる。つまり、ピーターのことを見出し、ピーターに想いを託したトニーが亡くなった直後の本作こそ、スパイダーマンが成長の第一歩を踏み出すストーリーであり、そして今後のスパイダーマンの成長こそが、MCU作品の新たなフェイズに大きく関わってくるはずだ。

スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』の好きなところは、設定が現代的な組み立てになっていること。ピーターの友人たちは、人種のるつぼニューヨークの住民だけあって、アジア系やミックスなど多種多様。MJは、好きなのに素直に好きって言えない奥手なうえに、暗黒とか陰謀とかが好きな子で、絶対にモテるタイプではないが、ハマると絶対楽しいこと間違いなし。そんな彼女に恋しちゃうピーターってとても信用できる。敵は、異星人でも超能力者でもないが、現代の最新テクノロジーを駆使して戦う(しかも1人ではなく、ちゃんと大勢の裏方がいる)現代社会におけるエリート(=ギーク)で、主義主張が自己肯定と自己満足に特化している嘘っぱちのテロリスト。

いやぁ、やっぱり劇場鑑賞はいいな。ほんとはあと2本くらい立て続けに観たかったところだが。

スパイダーマン、成長が楽しみなヒーロー。これからもずっとそばで見届けさせてほしい。

2019 day189

7月も第2週に入ったのに、梅雨は明けず気温も低い。5月から6月途中までの暑さは何処へやら、朝晩は通勤で着ているジャケットがちょうど良いほどに涼しい。

6月、まだ暑かったころ、ニトリでスーパーNクールを買った。ひんやり冷たい布団シーツだ。長時間寝転がっていてもシーツは冷たさキープ、体温で温まることはない。

これは快適と思ったのもつかの間、梅雨入りとともに気温がぐんぐん下がり、Nクールの上で寝ていると寒くて夜中に目が覚めるようになった。おまけにこの借家は安普請だから、窓から隙間風が入ってくるので、窓際で寝ている自分の枕元にスーッと冷気が漂ってくる。あまりにも寒いものだから、羽毛布団を肩までかけて寝たりして。それでもNクールに接地している部分は冷たさキープで温まることなく、布団をかぶっているのに体の半分は寒いというおかしな状態に。

心身ともに休まらない。

快適さを求めて買ったNクールが逆効果を発揮している夏の夜。早くうだるような暑い夏が来ないものかな。

2019 day182

あれ?

今年も今日から折り返し。早いなぁ……とか言ってる場合じゃない。5月、そして6月と、二ヶ月連続で映画館に行っていない。

そりゃあ忙しかった。仕事帰りに観に行けるような時間もなかったし、休みの日も予定があったし、何にもないときはのんびり家族と過ごしていたし。

でも気付いたら二ヶ月。最後に観たのが4月26日のアベンジャーズ公開初日。

ビューティフル・ボーイ、マローボーン家の掟、ハンターキラー、ある少年の告白、シャザム!、キングダム、コンフィデンスマンJP、アメリカン・アニマルズ、ガルヴェストン、ラ・ヨローナ、愛がなんだ、ウィーアーリトルゾンビーズゴジラ、X MENダークフェニックス、凪待ち、MIBインターナショナル……。観てない。

あ、スパイダーマン新作も先週末から始まってた。これは絶対絶対観なきゃ。今月は絶対観る。他の作品も、まだやってるのは観る。有休使って観る。

しかし、今日は腹が立った。偏重した考え方の人間を相手にするのは本当に疲れる。本題から逸れた意見を持ち出したことは大目に見るとして、その内容と言いっぷりに腹が立った。相手が部下だから諭してやらなければいけないのだが、それが一人ではなく複数人で、しかもそれぞれ少しずつ逸れ方が異なり、時間の制約もあったのでその場は聞くだけ聞いて終わりにしたが、1日のスケジュールをこなしやっと落ち着いた定時過ぎ、ふとそのことを思い出して再び腹が立った。

端的に言えば、仕事のできない人間、業務効率の遅い人間、自分の見立てで努力不足だと思える人間は排除しようという考え方。そういう人間のことをゴミ呼ばわりし、自分の可愛がっている業務効率のいい人間が報われていないと嘆き、法令や契約や会社の規律を無視した言い分を吐く。

彼らのことを教育していかなければならないのはリーダーである自分の責任ではあるが、それにしても考えが幼稚で、どこから手をつけるべきか。彼ら自身も決して高品質な仕事のできる人間ではないが、得意分野を見つけて引き出してやり、それぞれに活躍してもらっている。それでも、こちらが満足するレベルには到達していない。自分が彼らのような視点でしか物事を考えていなかったら、彼らはこの職場にはとっくにいない。でもそんなことはしない。そんなことをしていたら運営できないし、仕事ってそういうものじゃない。少なくとも組織で働くとはそういうことだ。

実につまらない。

彼らの言っていることは、ある種、仕事の放棄だ。彼ら自身の役割を果たさずに、投げっぱなしの文句をぶつけてくる。部下の文句を聞くのも上司の仕事のうちだから聞くが、きちんとこちらが思っていることも伝えなくてはならない。それが体力を使うので面倒なのだが、仕方ない。親の心子知らず。

はあー、映画が観たい。

2019 day180

今日は友人と2人でゴルフへ。2サム午後スルーで、東京湾の望める千葉のゴルフ場へ向かった。あいにくの天気で、首都高から東京湾アクアラインを抜けた後も、車の窓ガラスに雨粒が叩きつけられて、「着いても降ってたらキャンセルして打ちっぱだね」と話していたが、現地は傘の必要ないくらいの霧雨程度で、予定通りラウンドできた。

12時40分からのんびりスタート。午後スタートは朝がゆっくりしていられるのでよい。仕事関係のコンペでもないし、気を使う相手もいないので、お互いのびのびとゴルフを楽しんだ。途中、ティーグラウンド付近にウサギがいて、それを一所懸命iPhoneで撮影する友人。もうすぐ三児のパパ。相変わらず無邪気なヤツだ。

9ホール回ってクラブハウスにカートを回すと、予約しておいたホットドッグとアイスコーヒーを持って係員が待っていた。それを受け取りそのまま10ホール目へと移動する。カートは自動運転なので、ティーグラウンドまでの移動中に2人ともホットドッグをムシャムシャ食う。熱々で美味かった。から揚げとフライドポテトも付いていて、これも美味かった。アイスコーヒーにガムシロップを入れて飲む。気分スッキリ。気温は低いが湿度が高くて蒸し暑いので、アイスコーヒーの清涼感が身体に染み渡る。

前半はミスショットが多く60も叩いてしまったが、後半は特にアイアンの調子が良くて、50で回れた。友人は前半後半ともに安定の50。バンカーに苦しめられなければ100切りもできたんじゃないだろうか。

曇り空でなおかつ靄も出ていたのでせっかくの景色はあまり楽しめなかった。本当は東京湾が望める素敵なコース。打ち下ろしの向こう側に東京湾が広がっていたはずなので、次回は晴れの日にまた来たい。ゴルフクラブのサービスも良かったので、このゴルフ場を自分たちのホームグラウンドにしようと決めた。

4時間半で1ラウンド終了。2サムはさくさく進められるし、午後は人も少なく風呂も空いていて、午後スルー最高。帰りは海ほたるで寿司を食い、とても良い休日だった。次は8月にまたやろうと約束をして、友人と別れた。今度は有休を取って平日に遊ぼうかな。

2019 day178

オールナイトニッポンでテレ東の佐久間プロデューサーがこの春からパーソナリティを始めて、その番組を聴いている。先週のゲストが伊集院光だったので、久しぶりに深夜の伊集院光トークを聴いた。

ラジオを聴き始めたのは小学校6年生の夏。夏風邪にやられて1週間くらい自宅のベッドの上に寝たきり状態で、他にできることもないから枕元のラジオを一日中つけていた。昼間はTBS大沢悠里のゆうゆうワイド、夜は22時からニッポン放送伊集院光のOh!デカナイト、25時からはそのままオールナイトニッポンというのが自分の定番だった。ラジオってこんなに面白いんだ!と知った夏だった。

以降、ラジオを毎日聴くようになり、十代の途中でアメリカに留学した際も、向こうのラジオを聴いていた。

大学の途中で日本に戻ってきてからは、再び日本の深夜ラジオ生活が始まり、二十代後半で体調を崩して自宅にいた数ヶ月の時期は24時間TBSラジオをつけていた。ゆうゆうワイド、ストリーム、デイ・キャッチ!、UP's(後にJUNK)、そして早朝のおはよう一直線、と日がなラジオ漬け。

30代に入り、結婚もして、仕事と深夜ラジオの両立が徐々に難しくなり、毎日リアルタイムで聴く回数も減っていき、代わりにPodcastを聴くようになった。ちなみにその頃見つけたのが、マキタスポーツプチ鹿島サンキュータツオの東京ポッド許可局。今やTBSラジオでレギュラー化し、毎年イベントを全国で打つほどに成長した。その過程をリスナー(局員)として一緒に過ごせてきたことは、ラジオっ子としてこの上ない喜びだ。

話が脱線した。

radikoがスタートしてタイムフリー機能が使えるようになってからは、リアルタイムで聴けないラジオを後から聴けるので大変重宝している。

それでも聴きたい番組とその時間数が、こちらの体力や時間の制限の中に収まり切らず、取捨選択を迫られてしまい、伊集院光の番組はこの数年ほとんど聴いていなかった。自分の思春期のこじらせも二十代のひねくれも伊集院光によって慰められていたというのに。

で、先週、久しぶりにオールナイトニッポンのゲストとして登場した伊集院光を聴いた次第。それで無性に伊集院光の深夜ラジオが聴きたくなり、今週月曜のTBS深夜の馬鹿力radikoのタイムフリーで聴いた。

その放送内で伊集院が紹介してかけた曲が我妻佳代の『悲しみの向こうがわ』。滅多に音楽をかけない伊集院。というかTBS推薦曲すらかけたがらない伊集院が、自選曲をかけるのは珍しい。それほどに思い入れのある曲ということだ。

で、この曲、自分も思い入れがある。何故なら、昔、伊集院光ニッポン放送時代にOh!デカナイトで「大好きな曲」と言ってかけた曲なのだ。当時は番組をカセットテープに録音していて、留学した時もそのカセットテープを擦り切れるほど繰り返し聴いていた。その中で、『悲しみの向こうがわ』をかけるくだりがあり、再生を繰り返すうちにテープの音声飛びが出始め、歌の途中で一小節の一部分だけが音飛びするようになったのをよく覚えている。伊集院は『さよならの向こうがわ』と紹介して曲をかけて、曲終わりに「タイトル間違えました。『悲しみの向こうがわ』でした」と言っていた。

17年くらいの時を経て。テレ東佐久間プロデューサーのオールナイトニッポンをきっかけに、数年ぶりで伊集院光の深夜ラジオを聴いたら、「元おニャン子我妻佳代さんで、『さよならの向こうがわ』です」と紹介して曲が流れ始めた。プッシュホンのピッポッパッがメロディになっているイントロを聴いた途端、一瞬にして中学生の頃の記憶が蘇り、当時の寝室の光景や、ラジオを録音したカセットテープの色や、留学したときの郷愁感などが脳内を駆け巡った。

曲が終わって「タイトル間違えました。『悲しみの向こうがわ』でした」と伊集院が訂正した。まんま17年前だ。うわー、こんなことあるんだな。なんだかうまく表現できないけど感動した。これはなんというか、一種のご褒美だな。長年ラジオを聴き続けたご褒美。他人にはわからないご褒美。いただきました。

悲しみの向こうがわ

悲しみの向こうがわ